その1
上京してからずっと、「年の初めは金杯」と田島から誘われ、中山競馬場に足を向けるのが毎年の恒例行事となっていた。初めて親元を離れて過ごした大学2年目の正月も、研究者になると息まいて大学院に進むと決めた大学4年目の正月も、現実に目を向けて研究とは関係ない会社を受け続けた大学院1年目の正月も、田島と二人で中山に足を運んだ。
去年も競馬場には入れないとわかっているのに、「雰囲気だけ味わおう」とせがむ田島に圧されて、迷惑にも西船橋駅まで足を運んだ。もっとも、あの時は中山競馬場へのバスも出ておらず、諦めて駅前のマックで馬券を買ったのだが。しこたま負けた僕が「来年こそ来ない」と言ったら「これがないと1年が始まらないだろ」と田島がなだめてきたのを昨日のことのように思い出す。
でも、今年は田島からの誘いに返信はしなかった。それゆえ、行きたくなければ行く必要はまったく無いのだ。
だが、僕は西船橋駅に向かっている。
その2
西船橋駅を降り、北口開催を出た。すぐに田島と一緒に入ったマックが目に留まった。マックはいつでも良い場所にある。上京した時、東京駅の八重洲口にもマックがあった。
ふと見ると、マックの前のバス停に数人の列ができているのがわかった。中山競馬場行きのバスが出ているのだ。少ないながらも事前に抽選で当たれば、今年は競馬場に入ることが出来るとは知っていた。さながらプレミアチケットを手に入れた強運の持ち主達の列である。
タイミングよく中山競馬場行きのバスが滑り込んでくる。少しだけ悩んだか、僕はバスに乗り込んだ。適当に席に腰を降ろすと、ふうと一息をついた。周りは皆、競馬新聞に目を落としている。
去年の田島もそうだった。僕とは違い、前日から印をつけた新聞を熱心に見ていた。何が面白いのかと思うほどに。
田島はのめり込む男だった。僕と同じように地方出身で、初めての上京で面食らって、高校時代から彼女もいなくて、男子の学生寮に大学院の卒業まで居着いてしまうようなところまで似通っていたのに、決めたことは譲らない奴だった。
そんな田島と僕は、大学1年の入学式から今日までの6年間、ほぼ毎日つるんだ。その不器用とも言える一本気なところを僕は気に入っていたし、器用ではあるけど飽きっぽい僕の性分と相性も良かったのかもしれない。
違い過ぎてかえって合うということもある。例えるならば、いぶりがっことチーズのようなものだ。違うかもしれないけど。
間違いなく、田島は僕が東京で得た唯一無二の友人なのだ。
だから、研究を続けて博士課程に進むと決めたことを、田島らしいと僕は喜んでやるべきなのだ。肩を抱き、祝杯をあげてやるべきなのだ。
それなのに、田島からの連絡を無視するなんて、筋違いの対応を僕は取った。おかしいのは分かっている。研究をそこそこにまとめて、就職する自分と比べて、引け目を感じていることと無関係じゃないことも。
小さいのは僕の方なのだ。
その3
視線の先に中山競馬場が見えてきた。少し前後に車体を揺らしながらバスがターミナルに停まる。降りたバス停で吐く息は白かった。聳えるように中山競馬場がそこにある。
僕は競馬場へと続く人達の後ろを下を向いて続いた。どうせ入れないのは分かっている。それでも入場口を一目見てから帰るくらいならいいだろう。
ふいに「ヤマ」と声をかけられた。「おい、ヤマだろう」
聞きなれた声だった。顔をあげると、視線の先に田島がいた。
素直に驚いた。田島が競馬場に向かう人の流れに逆らう様に、こっちに向かって歩いてくる。奥目で、ツーブロックというには無理があるソフトモヒカン頭の、見慣れたゴリラ顔が近づいてくる。
僕の目の前で、田島が立ち止まった。
「なんでここにいるんだよ」
自分のことを棚に上げて、僕はそんなことを聞いていた。
「お前こそ」田島がもっともなことを返した。「人の誘いを無視しやがってくせに」
「忙しかったんだよ」
そう言って僕は顔を逸らした。なんとも言えない沈黙。昨年の春から今日に至るまで、就職が決まってから僕が忙しかったことなどないと、僕以上に田島が知っている。
道の真ん中で田島と二人、向かい合う。
「…場内にさ、入れてくれないんだよ」田島が先に口を開いた。「予約してないとダメらしい」
「それくらい、調べてから来いよ」と僕は答えた。
「調べたさ。でもさ、入れてくれてもいいだろう。一人くらい」
「そんなわけないだろ」
「ヤマは調べたのかよ?」
「ああ、もちろん」
「じゃあ、なんで来たんだよ?」
聞かれ、返答に詰まった。
そんなこと、自分でもわからない。本当にわからない。
そのとき、遠くで蹄がターフを駆ける音と小さいが熱量の籠った拍手の音が聞こえた。中山競馬場から洩れるように、でも、はっきりと聞こえた。わああと我慢できずに漏れる歓声も。
不思議と心が躍った。それと同時に、背中を押された気がした。僕はいつまで意地を張っているのか。誰の得にもならない意地を。
「…年の始めは金杯、だろ」
気がついたら僕はそんなことを口走っていた。
田島が目を丸くして、次の瞬間、ゴリラ顔の奥目がゆるんだ。
「そうだ」田島が笑った。「金杯がないと、一年は始まらない」
「でも、どうする?入れないんだろう」と僕。
「仕方ない、西船橋のマックにでも行くか」
「結局、戻るのかよ」
二人でバス停へとUターンした。並んで歩く。田島の右手にはいつものように赤のマッキーと新聞がある。
「本命は?」僕は聞いた。
「俺はウインイクシード」
「人気あんの?」
「あんまり。たぶん勝てないかな。でも、中山金杯に3年連続出走だぞ。拘っているのがいいじゃないか」
「お前みたいだしな」僕は言ってやった。
「なんでだよ」と田島が苦笑した。「たぶん勝てないって言ってんのに」
「今はだめでもいつか勝てるんだよ、そういう馬はさ」
お前みたいにな、とは付け加えなかった。でも、視線は感じた。田島とは目を合わせなかった。これが今の僕に出来る精一杯の祝福だ。
「いまの一番人気は?」照れ隠しで僕は聞いた。
「ヒートオンビート。鞍上は若武者、横山武史」
「固い?」
「わからん。中山は初だし。でも、京都阪神中京で勝ち鞍あって、万能タイプ。距離の融通も利きそう」
「いいじゃん。じゃあ、俺は本命ヒートオンビートで」
「柔軟で、ヤマみたいだもんな」と田島。「正直、羨ましいわ」
つい、隣を見る。田島はそっぽを向いていた。通りの向こうに目を向け、まだ姿も見えないバスを探している。
無いものねだりか。田島も僕も。
入れなかった中山競馬場の向こうから、ファンファーレの音が1月の寒空に響いてきた。