Gallopエッセー大賞投稿作品、中編です。
ふとした心配事ですが、幸せなことにこのブログの読者の皆様はリピーターが多いようなのです。が、これをキッカケに普通の記事も読んでもらえなくなったらどうしよう…
…まあ、今更なので、中編です。
中編
3
昌義がぶつくさいうので、自分のスポーツ新聞を昌義に譲り渡した。読み方はたいしてわからないし、どの道買うのは単勝だけだ。迷う要素が元々少ない。
昌義曰く、初めて馬券を買う人は単勝だけしか買ってはいけないらしい。馬券の種別がいくつかあることは「将棋には桂馬という駒がある」程度の知識として知っていたが、そんなルールがあるとは知らなかった。
「そうなのか?」
始めてそのルールを聞いた時、俺は昌義に聞いた。今年で二十歳にはなったが、まだまだ自分にとって世の中は知らないことだらけである。その点、昌義は競馬に関しては上級者だ。
「もちろん」と昌義は答えた。「単勝は俺の青春の始まりなんだ」
そう言って昌義は心持ち右頬の口角を上げながらマークシートと赤マッキーを俺に差し出たのだ。
「次は何を買う?」
投票所のすぐ近くにあるマークシート記載台で横並びになり、赤マッキーをクルクルと回している昌義に俺は聞いた。新聞がないから、いよいよ馬名もわからない。
「うん?そうだな…」昌義が少し答えに詰まった。「俺は十二番が軸だ」
「十二番ね」
昌義の返答通りにマークシートを塗ろうとすると、右手をがっと掴まれた。思わず顔を上げる。昌義が目を丸くしていた。
「お前、どうするつもりだ?」
「いや、だから八レースは十二番でいいんだろ?」
「馬鹿野郎!」
横にいたカップルが振り向くほどの声量で昌義が言った。一瞬、俺はそのカップルの女の方に目がいった。別れた彼女と同じく、ショートボブの可愛い子だった。
「俺が言った通りに買ったら意味がないだろう」
「はあ?」正直言って困惑した。「俺は初心者なんだから昌義が言った通りに買えばいいだろ?損したくないし」
「違う。お前はわかってない」
カップルがスーッと波が引くように俺と昌義の側から離れていった。後姿も別れた彼女に似ていた。チャコールグレイのカーディガンを羽織るところなんて服の趣味まで似通っている。別れた彼女は同い年とは思えない程、落ち着いた人だった。頭も良かった。決断力もあった。なにより笑った時の笑顔が誰よりもキュートだった。自慢の彼女だった。
「悩めよ。せめて自分で選べよ。言った通りに買うなんてお前はそれでも男か」
「いや、男だけどさ」
自分の股間の辺りに意識を向ける。うん、ちゃんとある。
「違う。ジェンダー的なことを聞いてるんじゃない。かけるものがないのかって言ってるんだ」
「かけてるだろ。さっきから百円ずつだけど」
「あのなぁ…」本気で呆れた顔で昌義が言う。「金じゃねえって。ここだよ、ここ」昌義が自分の胸をボンボンと叩いた。「自分の想いをかけるんだろ。ったく、お前は昔からはっきりしねえよな。男らしさがないからきっと樹里ちゃんに振られたんだぜ」
「樹里は関係ねえだろ!」カッときた。「というか、振られてねえし。振ったんだよ」
「馬鹿言え。振った奴があんなに泣くか」
「泣いてねえよ」
「泣いてたろ。一晩中、一緒に飲んでやったろうが」
「黙れ。忘れろ。全て忘れろ」
下らない言い争いになった。先ほどのカップルに続き、近くにいた人が少しずつ離れていく。ただ、そんな中にも普通に俺と昌義の間にあるマークシートに手を伸ばし、そのまま記載台で記入していく強者のおじさんもいた。他人の言い争いなど慣れている、そんな感じだった。
ちなみに、八レースは十二番を買って外れた。ジョッキーはルメールという奴だった。負けたくせに淡々と引き上げていく。
ルメールは信用ならない。そう思った。聞けば、フランス人だという。きっとフランスで食えないから日本に出稼ぎに来たに違いない。
4
九レース、十レースも連続して外した。財布を見ると、ちょうど昼飯で食べた牛丼分くらい損をしていた。昌義が曰く、十一レースが今日のメインレースのジャパンカップらしい。
「最終には未練は残さねえ」
昌義が鼻息荒く言う。どうやらジャパンカップで大勝負をする気のようだ。
そう聞くと、ほんのわずかだけであるが、射幸心が俺の心にももたげた。せめて牛丼分、いや、出来れば往復の電車賃を持って帰れたら万々歳だ。
最後はパドックで馬が見たいという昌義に誘われ、一緒にパドックに向かった。
ちょうどパドックを出走馬が回り始めるタイミングに間に合った。ただ、パドックの周りには何重にも人の輪が出来ていた。さすがに人込みを割って入っていくのには難しそうなので少し離れて高い位置から眺めることにした。馬しかいないのかと思ったらパドックの円の中央には着飾った人達が談笑しているのが見えた。わずかではあるが、外国人らしき人もいる。小さくはあるが、所々を国旗が彩っていた。なんだか祝祭のような雰囲気を感じた。日本じゃないみたいだ。
「どれを買えばいい?」
「メインくらい自分で決めろよ」
せっかく聞いたのに既にパドックに心を奪われている昌義に冷たく言われた。
「遠目で見て勝ちそうな馬にするとか、そういうのも結構当たるぞ」
ちぇっ、と俺は舌打ちをした。見るだけで勝つ馬がわかったら世話がない。プロならまだしも自分は今日が競馬デビューなのだ。
仕方なくパドックに目を向ける。とりあえず、一番から見ていこう。ゼッケン一番の馬を探した。自分の目が一番の馬に留まったその時だった。
ドキリとした。日はわずかに陰っているのになぜかその茶色の馬体が薄く光っているように見えた。リードする厩務員の後を静々と歩く姿が実に様になっていた。顔の前にある真っ白なクッションは何だろうか?何だかあのワンポイントがあるおかげで堂々として強そうなのにチャーミングだ。
一番はもう見た。次は二番を見て、その次は三番、と頭ではわかっているのに目が一番の馬に釘付けになって動かなくなった。じっと一番の馬の動きを追ってしまうのが何故なのか、自分でもよくわからなかった。
しばらくそのまま見ていると、パドックに動きがあった。様々な色の服を着たジョッキー達がバラバラとパドックに入ってくると、次々と馬に跨った。なるほど、馬を載せた状態でも歩き姿を見せるということか。一番の馬には空色に赤い水玉をあしらったオシャレな天道虫のような服を着たジョッキーが跨った。
そして、また驚いた。自分のような素人の目にもハッキリと一番の馬の歩き方が変わったことがわかったからだ。さっきまでの静々とした歩みとは打って変わって、カツリ、カツリ、とステップを踏むような歩み方。でも、忙しくない。ドリブルが得意な奴みたいだと俺は思った。サッカーもバスケも驚くほどドリブルが上手い奴は速い時だけではなく、ゆっくりな時もすごいのだ。緩急の付け方とオンオフの切り替えが抜群で、誰も真似できないリズムを刻む。
「あの一番の馬は何て馬?」昌義に聞いた。
「アーモンドアイだよ」
なるほど。あれがアーモンドアイか。確かに他の馬とは別格だ。たいして見てもいないが、違いがわかる。他の馬に目がいかないのが何よりの証拠だ。
「鞍上もルメールだし、こりゃ鉄板だな」
「ルメール?さっきダメだった奴じゃん」少し不安になって俺は昌義に言った。「大丈夫なのか?」
でも、昌義に鼻で笑われた。
「馬鹿言え。今、日本で一番信用できるジョッキーだよ」
「そうなのか?フランス人なのに?」
「そうさ。別に何人でも関係ないだろ。競馬はフェアなんだ。上手い奴はどこでも上手い。それにルメールはわざわざ日本で乗るために母国の騎乗免許を返上したんだぞ。覚悟が違うよ。勇気あるよな」
確かにそれもそうかと思った。自分だったらとても出来ない。というより、覚悟してやるようなことすら今の自分にはない。決定的に嫌われるのが怖くて、去っていく彼女を引き留める勇気もなかった。
俺はマークシートに目線を落とした。今日初めて自分で覚悟を決めた。立ったまま、赤マッキーでマークをする。マークをする馬は当然アーモンドアイだ。場所は東京、レースは十一レース、馬番は一番、種別は単勝、金額は一、とそこまでマークした。ちょっとだけマッキーの動きが止まる。
そして、最後に小さな勇気を出して千円にマークをした。